量子アルゴリズム for 金融

金融ポートフォリオ最適化への量子アニーリングとQAOAの適用

Tags: 量子最適化, ポートフォリオ最適化, 金融工学, 量子アニーリング, QAOA

はじめに

金融市場において、ポートフォリオ最適化は投資戦略の根幹をなす重要なプロセスです。現代ポートフォリオ理論(MPT: Modern Portfolio Theory)に代表される古典的な手法は、リスクとリターンのバランスを考慮した最適な資産配分を導き出すことを目的としています。しかし、現実の金融市場は複雑であり、多様な金融商品の増加、非線形な制約、そして市場の変動性といった要因が、従来の最適化手法では扱いきれないほどの計算負荷を伴う大規模な問題を引き起こしています。

このような課題に対し、量子コンピューティング技術、特に量子最適化アルゴリズムが新たなアプローチとして注目を集めています。量子アニーリング(Quantum Annealing: QA)や量子近似最適化アルゴリズム(Quantum Approximate Optimization Algorithm: QAOA)は、複雑な組み合わせ最適化問題を効率的に解く可能性を秘めており、金融ポートフォリオ最適化の分野においてもその適用が期待されています。本記事では、金融ポートフォリオ最適化の基本概念を概観し、それが量子最適化アルゴリズムによってどのように解かれ得るか、その理論的背景と実践的な考慮点について解説します。

現代ポートフォリオ理論(MPT)の課題と最適化問題

現代ポートフォリオ理論は、マーク・ウィッツによって提唱された、期待リターンとリスク(通常はリターンの標準偏差で測られる)のバランスに基づいて最適なポートフォリオを構築するフレームワークです。投資家は、与えられたリスク水準に対して最大のリターンを得るか、与えられたリターン水準に対して最小のリスクで済むようなポートフォリオを構築することを目指します。

この最適化問題は、一般的に以下のような形で定式化されます。

$$ \min_{w} \quad \mathbf{w}^T \Sigma \mathbf{w} $$ $$ \text{s.t.} \quad \mathbf{w}^T \mathbf{R} \ge R_p $$ $$ \sum_{i=1}^N w_i = 1 $$ $$ w_i \ge 0 \quad \text{for all } i $$

ここで、$\mathbf{w}$ は各資産への投資比率(ウェイト)を示すベクトル、$\Sigma$ は資産間の共分散行列、$\mathbf{R}$ は各資産の期待リターンを示すベクトル、$R_p$ は目標とするポートフォリオの期待リターンです。

この問題は、二次計画問題(Quadratic Programming)として知られ、古典的な最適化手法を用いて比較的効率的に解くことができます。しかし、以下のような要因が加わると、問題は指数関数的に複雑になります。

特に、上記の離散的な制約や非凸性は、古典的なアルゴリズムでは厳密解を見つけることが非常に困難なNP困難問題を引き起こすことがあります。

量子最適化アルゴリズムの紹介

金融ポートフォリオ最適化におけるNP困難な問題に対処するため、量子アニーリングとQAOAという二つの主要な量子最適化アルゴリズムが有望視されています。

量子アニーリング(Quantum Annealing: QA)

量子アニーリングは、最適化問題をイジングモデルまたは二次非制約二値最適化問題(QUBO: Quadratic Unconstrained Binary Optimization)として定式化し、量子トンネル効果を利用して基底状態(最小エネルギー状態)を見つけることで解を導き出す手法です。

QUBO問題は、次のように定義されます。

$$ \min_{x \in {0, 1}^N} \quad \sum_{i<j} Q_{ij} x_i x_j + \sum_i Q_{ii} x_i $$

ここで、$x_i$ は二値変数(0または1)、$Q_{ij}$ は結合係数です。金融ポートフォリオ最適化問題における連続変数や整数変数を、補助変数を用いて二値変数にマッピングすることで、QUBO形式に変換します。例えば、「特定の資産を選択するか否か」という問題は、直接的に二値変数で表現できます。

量子アニーリングは、イジングモデルのハミルトニアンを物理システムとして構築し、断熱定理に従って徐々に量子的な揺らぎを減少させることで、系の状態を目的関数の最小値に対応する基底状態へ遷移させます。このアルゴリズムは、特に組み合わせ最適化問題に対して高い性能を発揮することが期待されています。

量子近似最適化アルゴリズム(Quantum Approximate Optimization Algorithm: QAOA)

QAOAは、変分量子アルゴリズムの一種であり、近年のノイズあり中間スケール量子(NISQ: Noisy Intermediate-Scale Quantum)デバイスに適しています。QAOAは、古典的な最適化ループと量子回路の実行を組み合わせたハイブリッドアルゴリズムです。

QAOAの基本的な考え方は、最適化問題のコスト関数に対応するコストハミルトニアン $H_C$ と、状態を探索するためのミキシングハミルトニアン $H_M$ を用いて、量子状態を繰り返し変換することです。具体的には、パラメータ $\gamma$ と $\beta$ を持つ量子ゲート $e^{-i\gamma H_C}$ と $e^{-i\beta H_M}$ を交互に適用し、最終的な量子状態を測定することで解の候補を得ます。これらのパラメータは、古典的な最適化器(例: COBYLA, ADAM)によって反復的に調整され、期待値が最小となるように探索されます。

QAOAは、問題の規模が大きくなっても、ある程度の近似解を効率的に見つける可能性があり、特に複雑な制約を持つポートフォリオ最適化問題に適応できる可能性があります。

ポートフォリオ最適化問題の定式化と量子アルゴリズムへのマッピング

ポートフォリオ最適化問題、特に資産選択の離散性や取引コストを考慮した問題は、量子最適化アルゴリズムで扱うQUBO形式へ変換することが可能です。

例えば、単純な「最小分散ポートフォリオ」に加えて、「特定の数の資産のみを選択する」という制約を付加する問題を考えます。

$$ \min_{x \in {0, 1}^N} \quad \sum_{i,j} x_i x_j \Sigma_{ij} $$ $$ \text{s.t.} \quad \sum_{i=1}^N x_i = K \quad \text{(選択する資産の数)} $$

ここで、$x_i=1$ は資産 $i$ をポートフォリオに含めることを、$x_i=0$ は含めないことを示します。

この制約付き最適化問題をQUBO形式に変換するには、ラグランジュ乗数法に類似した手法を用います。制約条件を目的関数にペナルティ項として加えることで、非制約のQUBO問題に変換します。

$$ H = A \left( \sum_{i=1}^N x_i - K \right)^2 + B \sum_{i,j} x_i x_j \Sigma_{ij} $$

ここで、$A$ と $B$ はペナルティの重みを調整する正の定数です。$A$ を十分に大きく設定することで、$\sum x_i = K$ の条件が満たされない場合に大きなペナルティが課され、結果的にこの制約が満たされるような $x$ の組み合わせが最小エネルギー状態となります。

QAOAの場合も、同様にコストハミルトニアン $H_C$ を上記QUBO問題のハミルトニアンとして構築します。各 $x_i$ に対応する量子ビットを用意し、$x_i$ をパウリZ演算子 $(I-Z_i)/2$ に置き換えることで、ハミルトニアンを量子ビットの作用素で記述します。

実装上の考慮点と課題

金融ポートフォリオ最適化に量子アルゴリズムを適用する際、いくつかの重要な考慮点と課題が存在します。

  1. 問題のサイズとスケーラビリティ: 実際の金融ポートフォリオは数百、数千の資産を含むことが一般的です。現在のNISQデバイスでは、扱える量子ビット数に限りがあり、大規模な問題を直接扱うことは困難です。QUBOへのマッピングによって問題の規模がさらに増大する可能性もあります。この課題には、ハイブリッド量子古典アルゴリズムや、問題の分解手法が有効となる可能性があります。
  2. 共分散行列の推定精度: ポートフォリオ最適化の性能は、資産間の共分散行列 $\Sigma$ の精度に大きく依存します。市場データから正確な共分散行列を推定することは、古典的な統計学においても課題であり、量子コンピューティングが直接解決する問題ではありません。ただし、量子振幅推定(QAE)などの量子アルゴリズムは、より効率的なモンテカルロシミュレーションを通じて、将来的にこの推定精度向上に寄与する可能性を秘めています。
  3. ノイズと誤り耐性: NISQデバイスはノイズの影響を受けやすく、計算結果の信頼性に影響を与えることがあります。誤り訂正技術の開発が進むまでは、VQEやQAOAのような変分アルゴリズムにおけるノイズ耐性や、古典的な最適化器との協調が重要となります。
  4. ハイブリッド量子古典アルゴリズム: 現実的な金融問題では、すべての計算を量子コンピュータに任せるのではなく、古典コンピュータと量子コンピュータが連携するハイブリッドアプローチが主流となります。例えば、古典的に前処理を行い、最も計算負荷の高い最適化部分のみを量子コンピュータで実行するといった設計が考えられます。

簡単なコードの考え方(概念的)

量子アニーリングを用いたポートフォリオ最適化の概念的な実装では、まずPythonなどの言語でQUBO問題の係数行列 $Q$ を構築します。例えば、D-Wave Systemsが提供するOcean SDKや、Qiskit Optimizationなどのライブラリを使用することで、このQUBO問題を量子ソルバーに投入できます。

# 以下は概念的なコードスニペットであり、実行にはD-Wave Ocean SDKまたはQiskit Optimizationが必要です。

import numpy as np
# from dwave.system import DWaveSampler, EmbeddingComposite
# from qiskit_optimization import QuadraticProgram
# from qiskit_optimization.algorithms import MinimumEigenOptimizer
# from qiskit.algorithms.minimum_eigen_solvers import QAOA

### 1. 金融データの準備(例: 共分散行列と期待リターン)
# 実際には過去データから推定されます
num_assets = 5
covariance_matrix = np.array([
    [0.01, 0.005, 0.002, 0.001, 0.003],
    [0.005, 0.02, 0.003, 0.001, 0.004],
    [0.002, 0.003, 0.015, 0.002, 0.001],
    [0.001, 0.001, 0.002, 0.01, 0.002],
    [0.003, 0.004, 0.001, 0.002, 0.018]
])
# expected_returns = np.array([0.05, 0.07, 0.04, 0.06, 0.08])

### 2. ポートフォリオ最適化問題のQUBO形式への変換
# ここでは、単純な「K個の資産を選択する最小分散ポートフォリオ」を想定
K = 2 # 選択する資産の数

# QUBO行列 Q を構築
Q = np.zeros((num_assets, num_assets))
A = 100 # 制約ペナルティの重み
B = 1   # リスク項の重み

# リスク項 (B * w^T * Sigma * w)
# x_i x_j Sigma_ij となるため、Q_ij = B * Sigma_ij
for i in range(num_assets):
    for j in range(num_assets):
        Q[i, j] += B * covariance_matrix[i, j]

# 制約項 (A * (sum(x_i) - K)^2) を展開
# A * (sum(x_i^2) - 2K * sum(x_i) + K^2)
# x_i^2 = x_i (because x_i is binary)
# A * (sum(x_i) - 2K * sum(x_i) + K^2) = A * (-sum(x_i) + K^2)
# Q_ii += A * (1 - 2*K)  # for linear terms A * x_i
# Q_ij += A * 2          # for quadratic terms A * x_i x_j (i != j)

# 厳密には、A * (sum(x_i) - K)^2 = A * ( sum(x_i^2) + sum_{i!=j} x_i x_j - 2K sum(x_i) + K^2)
# x_i^2 = x_i なので
# = A * ( sum(x_i) + sum_{i!=j} x_i x_j - 2K sum(x_i) + K^2)
# = A * ( (1-2K)sum(x_i) + sum_{i!=j} x_i x_j + K^2)

for i in range(num_assets):
    Q[i, i] += A * (1 - 2 * K) # 線形項の係数
    for j in range(i + 1, num_assets):
        Q[i, j] += A * 2 # 二次項の係数 (x_i x_j と x_j x_i の両方を含むため *2)
        Q[j, i] += A * 2 # 対称性のため

# Q はQUBOモデルの係数行列
# print("QUBO Matrix Q:")
# print(Q)

### 3. 量子ソルバーへの投入(概念的)
# D-Waveの量子アニーリングの場合
# sampler = EmbeddingComposite(DWaveSampler())
# response = sampler.sample_qubo(Q, num_reads=100)
# for sample in response.first.sample:
#     print(f"Optimal portfolio (binary): {sample}")

# QAOA(Qiskit Optimization)の場合
# qp = QuadraticProgram()
# for i in range(num_assets):
#     qp.binary_var(f'x{i}')
#
# # Qiskit Optimizationでは目的関数をmin sum_{i,j} Q_ij x_i x_j として直接設定
# qp.minimize(quadratic=Q)
#
# # QAOAソルバーの設定と実行
# # from qiskit.primitives import Sampler
# # qaoa_solver = QAOA(sampler=Sampler()) # 量子シミュレータまたは実際のデバイスを指定
# # optimizer = MinimumEigenOptimizer(qaoa_solver)
# # result = optimizer.solve(qp)
# # print(f"Optimal portfolio (binary): {result.x}")

上記のコードスニペットは、ポートフォリオ最適化問題からQUBO行列を生成し、それを量子ソルバー(D-Waveの量子アニーリングまたはQiskitのQAOA)へ渡す際の概念的な流れを示しています。実際の実装では、資産の連続ウェイトを二値変数に変換するための工夫や、より複雑な制約の組み込みが必要となります。

今後の展望

金融ポートフォリオ最適化における量子アルゴリズムの適用は、まだ研究開発の初期段階にありますが、その可能性は非常に大きいと考えられます。

NISQデバイスの進化と、誤り耐性量子コンピュータ(FTQC: Fault-Tolerant Quantum Computer)の実現に向けた研究が進むにつれて、量子アルゴリズムは金融業界に革新的な変化をもたらす可能性を秘めています。

まとめ

本記事では、金融ポートフォリオ最適化における古典的な課題を概観し、量子アニーリングとQAOAがこれらの課題に対してどのように新たな解決策を提供し得るかを解説しました。特に、複雑な制約や離散的な意思決定を含む問題をQUBO形式に変換し、量子最適化アルゴリズムで解くアプローチに焦点を当てました。

現在の量子ハードウェアの制約やノイズといった課題は依然として存在しますが、ハイブリッド量子古典アルゴリズムや継続的な技術革新により、金融分野における量子アルゴリズムの実装と応用は着実に進展していくでしょう。金融エンジニアが量子技術の基本を理解し、その可能性を追求することは、未来の金融市場における競争力を確立するために不可欠であると考えられます。